また明日

日々の興味。前向きに。

君の知らない転びかた

そういう名前の舞台があったの、少し前に。印象的なタイトルじゃない?

 

私たちはほとんどみんなどこかで転ぶ。つまずくだけで、誰かの肩を借りて起き上がることができるかもしれないし、ひどく挫けてあとを引くことになるかもしれない。運と実力に恵まれて、まっすぐに屈託なく歩いていける人も、少しいる。

自分が転ぶ日が来るなんてことを、きちんと想像できないのはきみの若さだけれど、たとえば親としては、なるべく転ばないように、屈託なく胸を張って歩き続けられるように、そう祈って後ろでハラハラしているよ。

若い日々には大いに夢を見てほしいし、がむしゃらに進んでいってほしい。ザッカーバーグやベゾスみたいに世界を変える人間になるチャンスはきっとある。それは本当にそうで、転ぶことばかり予想して足元に気を取られてほしくない。

そういう世界観のなかで、弱者に思いを寄せるのはとても難しい。ベーシックインカムや最低保証年金なんて、みんなで手をつないで走るゆとり時代の徒競走にしか感じられないかもしれない。エレベーターなんてなくても、階段を二段飛ばしで上がっていける君には。

きっと君が初めて転ぶことを意識するのは、転んでいる他人を目の当たりにして、でもその転んだ人を、なにもできずにただ見つめるとき。そういう体験を必ずすることになる。私にとっては、それは大きな地震、君が生まれるよりもずっと前のこと。まだこどもで、揺れや火事で転んだ人に手を差しのべることもできなくてただ震えていた。

そのあと、何年か経って、身近な人たちも、老いて転んで骨を折ったりして、だんだんと立ち上がる気力を失っていった。でも私になにかができるわけではなかった。

私は親として君に、矛盾することを二つ望む。なるべく転ばないで美しいかおをして立っていてほしい。一方で、転んだときの苦しみと痛みを、たくさん感じて知ってほしい。アンビバレントな親心。

 

私たちは親から何を言われたか。

家で食事を残すと、世界には飢餓で苦しむこどももいて食べるものがあるだけでも心から感謝しなければならないよと教えられていた。(お母さん、それにしても、あれは本気で失敗した料理だったのではないかしら?)。

たぶん、私たちの親の世代というのは戦争というつらさは知らなくて、それでもだんだんと豊かになっていく世界に、いくばくかの後ろめたさがあった人たちなのだと思う。学生運動なんかしていたか、それを身近に見ていた人たち。手離しの豊かさが今も信じられなくて、原発なんかの科学文明も何かのチートだと思っている人たち。とても心優しいけど、戦争の不在に心を痛めている人たち。罪悪感と猜疑心にとらわれたかわいそうな人たち。豊かな生活をエンジョイしているのに、弱者には手を差しのべるべきと言う態度は捨てられない人たち。罪悪感は感じながらももらえる年金はちゃんとポケットに入れて、君たち孫にいいものを買ってくれる人たち。かれらもまた、アンビバレントな親心を持っている。

 

タラとかレバとかはないから、私たちと君たちと、そして私たちの親たちが歩く道の、どれが平坦でどれが険しいかを時空を越えてくらべることはできない。

ただ、どんなに平坦に見える道でも転ぶ人はいる、それは本人の資質や努力とは全く違う次元でのこと。すべての人間が違う転びかたをする世界で、ただの一度でもいいから転んだ人に手をさしのべられる強さを持ってほしい。(なんか、君たちはどう生きるか、みたいかな。)

チャーチルという人は"If you are not a liberal at 20, you have no heart. If you are not a conservative at 40, you have no brain."と言ったというよ。20でリベラルでないなら、心がない。40で保守でないなら、頭がない。

リベラルやコンサバティブっていう意味は時代によって真逆になる。気を付けないといけないけど。

転ばない20は自由を尊ぶ、転びかたを知った40は社会制度を守るようになる。そういうことではないか、と今の私は思うよ。

 

若者よ、野心的であれ。と、クラーク博士のモノマネで締める。