また明日

日々の興味。前向きに。

『厚労省と新型インフルエンザ』を批判的に読む

過去に学ぼう

#COVID19 の流行について日々感染拡大の状況が伝えられ、少し落ち着かない気持ちが出てくる頃合い、10年前の新型インフルエンザH1N1の流行時から学ぶことが何かあるか?と思い、図書館で『厚労省新型インフルエンザ』木村盛世著(講談社現代新書)を借りてきた。

万人が今読み返すべき名著!とは言わない。厚労省への批判や主観というべき内容も多くそういう毒の部分を丁寧に除去して客観的に頷ける部分だけを取り出す作業が必要になる本だと思うので。

内容として以下少しずつ抜粋してみます。

p.41

新型インフルエンザが発生した当初は、検疫の有効性をどのメディアも取り上げました。しかし何度でもどんな機会にも正しいことを繰り返すことにより、だんだんと流れは変わっていきました。そして多くのメディアが「検疫偏重はおかしい」というようになりました。 

 ここで著者の立場が「検疫偏重はおかしい」というものであったことを押さえておきます。検疫とは今回も重要施策となっている「水際封じ込め」のことと思われます。

悪のバイブル行動計画

p.47

今回の行動計画のメインは「水際封じ込め」と「学校閉鎖」の二つです。検疫は厚労省が検疫所を通じて直接活動をお茶の間にアピールできる最良の方法ですし、学校閉鎖にしても、官僚たちの強制的な執行力を地方自治体や世間に知らしめる絶好の見せ場だったのではないでしょうか。 

動機の推察はともかく、現在と同じような状況だったことが伺えます。

p.50

検疫強化のシナリオに基づいて、ものものしい空港検疫をするよう厚労省から命令が下りました。(中略)

考えてみれば水際作戦とは労多くして益少なし、という戦法であることがわかります。すなわち費用対効果が低いということです。 

今回の水際作戦は主に政府チャーター機に対して行われており、この当時よりは合理的な範囲になっているように感じられます。

その後の展開、

 p.62

政府が日本の新型インフルエンザ封じ込め成功をアナウンスし続ける中、海外からやってくるはずの病気が国内で発生しました。(中略)

こうした騒ぎによって、低病原性H1N1インフルエンザは「とてつもなく危険な病気」としての地位を確固としたものにしたのです。それゆえ、患者を出した高校の校長先生は誹謗中傷の的となり、罹患した高校生も塾などでいじめられるなどの社会現象を生みました。

 封じ込めは、もちろん100%はできませんでした。しかし今回は「できているはず」という予断がなかった分、日本人は進化したのかもしれません。

p.67

このように地域ごとにPCR検査までするかどうかの基準がまちまちであったため、一番積極的に検査をした関西地域が結果として”蔓延地帯”としてクローズアップされてきたのではないでしょうか。そのため大阪・道頓堀付近は、マスクをした人々で埋め尽くされ、異様な光景になりました。 

マスクは本来、せきをしている人がつけるのは感染を広げないために有用だとされています。しかし、ウイルスが体の中に入っていない健常人が予防としてマスクをすることでウイルスの侵入を防いだという科学的根拠はないのです。
せきをしている人に対して取る防御策がいつの間にか「マスクをつければインフルエンザに罹らない」という”神話”を生んだのでした。新型インフルエンザが発生してから多くの”インフルエンザ専門家”がメディアに登場しました。その専門家たちも「マスクは有効だ」と行っていたものですから、みんなこぞってマスクを買いに走りました。(中略)

 今後第二波が訪れた場合、またマスクをつけた人たちで街があふれかえるのではないでしょうか。今度は関西地区でなく日本全体がマスク集団と化すことも十分考えられます。

この辺は昔も今も。。その後p.78からの外出を差し控える人が増え、献血も減ったことによる血液製剤不足の記述あり。これは今回も懸念されるところ。

 

公衆衛生学的にみるとどうなのか

費用対効果からみた検疫

p.89

では、日本の感染症対策に費用対効果分析の結果をもとに導入された政策はどこにあるでしょうか。少なくとも私が知る限りにおいてはどこにも存在しません。

新型インフルエンザ対策における検疫についてこのような意見も聞かれます。

「検疫強化を意味がないと言ってやめてしまった場合、重症患者が一人でも出てしまったらどうするのだ」

これに対し、もし私が政策決定者だったら「季節性のインフルエンザで毎年1万人近くの死亡者が出ている。この事実を認識した上で検疫強化に対する検疫強化に対する費用対効果分析をしてみればよい」と答えます。もちろん費用対効果の結果だけで政策決定が行われることはありませんが、少なくともやっておかなければならない分析の一つです。

これは確かに、と思う部分。感染力というのは感染してみるまでわからない、というのも歯痒いところではありますが。

p.91

厚生労働省は(2009年)六月二十四日に全数把握からクラスター・サーベイランスという方法に切り替えました。クラスター・サーベイランスというのはかかった患者すべての数を把握するのではなく、集団発生(クラスター)したところだけ捉えて検査をするという方法です。(中略)

データを正確に取るためのサーベイランスは、どの地域のどの程度の広がりがあるのか、どんな年代層に多いのか、性差はどうか、と言ったように病気の特性をとらえるために有用です。インフルエンザの第二波に供えたり、将来への参考にしたりと、重要な役割を持っているわけです。

もちろん全数把握というやり方は患者の数が多くなってくれば、検査をする場所やデータ管理をする部署がパンクして対応しきれなくなるので、臨機応変サーベイランスの方法を変えるのは当然です。しかしクラスター・サーベイランスは基本的には初期に小さい発生を発見して対策を講じるために行うので、今回の新型インフルエンザに対して行われたクラスター・サーベイランスへの切り替えが意味のあるものであったかどうかははっきりしません。

時系列的には「二〇〇九年四月二十八日の日本政府の新型インフルエンザ発生宣言」という記述がありますので、2ヶ月は全数調査をやっていることになっていた、ということですね。今回はもう少し短縮されたでしょうか。

この後、今回も力を入れている「積極的疫学調査」について意味があるのか、という議論になります。

p.95

患者の軌跡をたどり個人のプライバシーを世間にさらけ出すこと以外に何か変えたものはあったでしょうか。

答えは「何もなかった」です。追跡調査にしてもなんにしても、調査をするためには目的と必要性があります。厚労省が行う調査はこの基本を全く無視したものです。感染症における追跡調査が必要なのはその病気がなんらかの手段を用いて封じ込め可能である時だけです。(中略)

ではインフルエンザは結核天然痘という二つの感染症と何が違うのでしょうか。

決定的に違うのは、インフルエンザには患者を追跡していって接触した人たちをつかまえたところで、病気の広がりを抑える手立てがないということです。結核には予防投与という治療法が確立していますし、天然痘にはワクチンがあります。いずれも発症する前にほぼ百パーセント予防できる手段があるのです。しかしインフルエンザにはこうした手段はありません。ワクチンもタミフルも完全な効果をもっているわけではありませんから、こうした追跡調査自体が意味のないことなのです。

全数調査=完全封じ込めにするためのもの

クラスター・サーベイランス=ウイルスの性質への理解を深めるためのもの

ということになるだろうか。追跡調査は感染危惧群を特定するための調査であり、感染したとしてもなんら医学的対処法のない場合には追跡に意味は薄いということのよう。まあ接触者に出歩くなという命令をする必要はあるのだろうけど。

現時点で、ウイルスの性質について完全な理解が得られているとは思えない。すでに得られた検体によって、ワクチンの開発や迅速検査薬の研究なんかはできるのかな。

 

この後、学校閉鎖の効果は?というところにつながっていくのだけど、ちょっと長くなった、明日にしよう。

 

なるべくじっとして、ご自愛くださいませ。

 

なんか、そういうことでもないと思えてきた

マズローっていう人がいて、欲求は満たされるとより高次なものに向かうという欲求5段階説を唱えたっていう。けっこうわかる気がするっていって広まっているのだと思うけど、あまり有用な考え方とも思えなくなってきた。
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快適なところで家族と飯食ってうまい、幸せっていうのはレベル3ってことなのかね。自己を実現させたいというのがそのあとに必ずくるのか。なんかモヤる。レベル4とされる承認欲求なんて日常語のようになってしまったけど、求める承認のあり方だっていろいろなベクトルがあると思うのだ。

説ってなんなんだろう。

 

マズローとかいって、だめなスシローみたいな名前だな。

そんなの、ひどい。

 

たまたま阿吽が、そこにあったからで、阿吽の言葉遣いをウンヌンしたい意図は全くありません。

さて、非道いということばですが、この書き方は彼岸過迄漱石の当て字という記載をいくつか見ました。本来の書き方は「酷い」でしょう。

このことを簡易的に検証するために、いつもお世話になっている国会図書館の検索してみます。


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古いものは明治28年1895年だそうで、検索結果は201件。


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一方で非道いは古いもので明治40年。滑稽小説なんだそうで、となると大正元年から連載開始の彼岸過迄よりも古い例になり、漱石先生ご考案という看板がすこし怪しい。いずれにしてもヒット数はたった8件。やはりこちらが後発で且つやや奇をてらった表現なのだと考えられます。

 

私が初めて非道いを見たのは、南国少年パプワくんで、イトウさんかタンノさんのセリフではなかったかと記憶しています。ちょっと手元に単行本がなくて確認できないですが、間違ってるけど伝わるし超面白いという感想を持ちました。あれが1991年からの作品なので100年の時を経て見いだされたといってよい(よくない)。1975年の週刊明星に、『聞くも涙、3億円事件で非道い目にあった人々』という記事があるので100年間死語だった訳じゃないか。

 

阿吽は仏教用語の「道」を意識しての意図的な選択なのだと思うのですが、他の面白用例が強すぎてちょっと引っ掛かりを感じた次第です。

 

さて、調べてみるとネットの語源辞典(あれ、合ってるやつなのかなあ)には非道が語源だと書いてあり、知恵袋(これもなー)でもその説が多数のよう。でも非道いが語源だとすると、この非道い表記のマイノリティぶりが、不可解だ。

 

辞書をひとつ引いてみた。角川新国語

酷しくなんて、聞いたことないけど、いつ頃の文語なのかしら。謎が多いなあ、江戸の言葉のような感じがするのだけれどな。

 

暇なときに、ボチボチ調べます。あしたにしよう。

君の知らない転びかた

そういう名前の舞台があったの、少し前に。印象的なタイトルじゃない?

 

私たちはほとんどみんなどこかで転ぶ。つまずくだけで、誰かの肩を借りて起き上がることができるかもしれないし、ひどく挫けてあとを引くことになるかもしれない。運と実力に恵まれて、まっすぐに屈託なく歩いていける人も、少しいる。

自分が転ぶ日が来るなんてことを、きちんと想像できないのはきみの若さだけれど、たとえば親としては、なるべく転ばないように、屈託なく胸を張って歩き続けられるように、そう祈って後ろでハラハラしているよ。

若い日々には大いに夢を見てほしいし、がむしゃらに進んでいってほしい。ザッカーバーグやベゾスみたいに世界を変える人間になるチャンスはきっとある。それは本当にそうで、転ぶことばかり予想して足元に気を取られてほしくない。

そういう世界観のなかで、弱者に思いを寄せるのはとても難しい。ベーシックインカムや最低保証年金なんて、みんなで手をつないで走るゆとり時代の徒競走にしか感じられないかもしれない。エレベーターなんてなくても、階段を二段飛ばしで上がっていける君には。

きっと君が初めて転ぶことを意識するのは、転んでいる他人を目の当たりにして、でもその転んだ人を、なにもできずにただ見つめるとき。そういう体験を必ずすることになる。私にとっては、それは大きな地震、君が生まれるよりもずっと前のこと。まだこどもで、揺れや火事で転んだ人に手を差しのべることもできなくてただ震えていた。

そのあと、何年か経って、身近な人たちも、老いて転んで骨を折ったりして、だんだんと立ち上がる気力を失っていった。でも私になにかができるわけではなかった。

私は親として君に、矛盾することを二つ望む。なるべく転ばないで美しいかおをして立っていてほしい。一方で、転んだときの苦しみと痛みを、たくさん感じて知ってほしい。アンビバレントな親心。

 

私たちは親から何を言われたか。

家で食事を残すと、世界には飢餓で苦しむこどももいて食べるものがあるだけでも心から感謝しなければならないよと教えられていた。(お母さん、それにしても、あれは本気で失敗した料理だったのではないかしら?)。

たぶん、私たちの親の世代というのは戦争というつらさは知らなくて、それでもだんだんと豊かになっていく世界に、いくばくかの後ろめたさがあった人たちなのだと思う。学生運動なんかしていたか、それを身近に見ていた人たち。手離しの豊かさが今も信じられなくて、原発なんかの科学文明も何かのチートだと思っている人たち。とても心優しいけど、戦争の不在に心を痛めている人たち。罪悪感と猜疑心にとらわれたかわいそうな人たち。豊かな生活をエンジョイしているのに、弱者には手を差しのべるべきと言う態度は捨てられない人たち。罪悪感は感じながらももらえる年金はちゃんとポケットに入れて、君たち孫にいいものを買ってくれる人たち。かれらもまた、アンビバレントな親心を持っている。

 

タラとかレバとかはないから、私たちと君たちと、そして私たちの親たちが歩く道の、どれが平坦でどれが険しいかを時空を越えてくらべることはできない。

ただ、どんなに平坦に見える道でも転ぶ人はいる、それは本人の資質や努力とは全く違う次元でのこと。すべての人間が違う転びかたをする世界で、ただの一度でもいいから転んだ人に手をさしのべられる強さを持ってほしい。(なんか、君たちはどう生きるか、みたいかな。)

チャーチルという人は"If you are not a liberal at 20, you have no heart. If you are not a conservative at 40, you have no brain."と言ったというよ。20でリベラルでないなら、心がない。40で保守でないなら、頭がない。

リベラルやコンサバティブっていう意味は時代によって真逆になる。気を付けないといけないけど。

転ばない20は自由を尊ぶ、転びかたを知った40は社会制度を守るようになる。そういうことではないか、と今の私は思うよ。

 

若者よ、野心的であれ。と、クラーク博士のモノマネで締める。

いつかは、いつだ?

 

とりあえず二箱ほど宅本便で鑑定に出してみた。本を売りに出したことって今まで一度もなくて、実家にも古い古い本が山のように積まれているのだけど、思いきって箱詰めして送り出した。たったの二箱だけなのに、遺品を整理しているような身辺整理をしている気持ちになった。読みたい本もたくさん送ったからな。ポイントが付与されたあかつきには電子で買い戻す手もある。

はやくhontoの正規品のeインク端末が出てくれるとなおよしなのだけれどな。

 

古本を放流するのはエコロジーなのだろうか。森林資源のことだけ考えたら電子の方がよいのかもしれないが、電力もかかるしな。わからない。持続可能な社会というのは、どことなく長生きするために運動をする、ということに似ていると思えてきた。どれだけ健康にしていたとしても、永久には生きられない。同じようにどれだけ持続可能な社会を作ろうとしても、永遠に繁栄する社会なんてない。いつなのか、という問いかたしかない。いつか破裂する風船を、ドキドキしながら次の人、次の世代に送っていくのだ。

どんなに節制しても、享楽のそしりを免れ得ない、そんな気がしてきたが、もうわからん。せいぜい長生きしよう。

老害、あるいは老概

いかんせん老いる。不惑になんなんとして、不惑に備えている。今は空中に吊り下げられて、だんだんと地面が近づき、ワイヤーも外されようとしているという局面で、なるべくピタリと良い姿勢で着地したい。

それが、不惑というものへの気構えです。まだ、ワイヤーの下がり具合が足りなくて、足がつかないような気がして、もがいている、それが今の心境です。

 

大人になるというのは、自分が果たすべき役割を果たす能力と覚悟(あきらめ?)をえることだと。居場所を決めて、スタとそこに着地することなのだと、今この時点では、思っている。その役割を、ひたすらに、良く果たすことで、世界が良くなっていくのだと信じることができれば、しあわせ。

 

役割がたとえば「ハムの人」だとしても。

 

はい、そんなこんなで今日の泣いたところ。

 


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あたらしい日々

来月になるともう平成ではなくて、レイワになるのだそうですね。ほのぼのレイワ(by GEコンシューマーファイナンス)。言いたいだけ。

4月がきてあたらしい学年になって、あたらしい生活が始まるのです。桜の季節過ぎたら、遠くの町に行くのかい?という歌のようにあちらこちらであたらしい何かが始まるのです。

あたらしい何かが始まる季節の予感に胸が踊らなくなったから、もう感性が疲れているのだな。節目のない、餅のような時間軸で生活をする旧社会人たちが5分咲きの桜の下で、花粉に耐えながらも楽しそうにお酒を飲んでいるのだ。あと何度子どもたちと桜を楽しめるだろうと、漠たる暗さも感じているのだ。

それくらいが新しさとの距離感です。"あたらしい"が"良い"の同義語でなくなってきてからが多様なオトナの価値観ってやつ。ヤッホー。

 

あたらしい ものにも古さ 桜ばな

 

もういちど、あらたなキモチで。明日から。