また明日

日々の興味。前向きに。

大人と子供は裏返し

 コドモという存在が発見されたのは、比較的最近のことで、それまでは小さなニンゲンというだけの存在であったと聞きました。

 原始的な社会においうてはコドモというには半人前の労働力でした。身体的な発達においてのみ評価すればそれはまさしくその通りなのだと思います。では、なぜコドモという概念を生みださなければならなかったのか。そこには経済成長=生産性の向上というものが存在していたのでしょう。現世代と、次世代の労働の質が違うという状況になって初めて、己が行ってきたのと同質の労働を担わせるのではなく、教育を施して、自分の世代よりも高生産な労働に従事させることが親として合理的な選択になった。その時にはじめて教育されるべきニンゲンの形態すなわちコドモが意識されるようになったと。

 次世代の人間が、自分たちの世代とは異質に高生産な存在になりうるという認識、それを人は希望と呼ぶのだと考えます。

 オトナ期の人間とコドモ期の人間の取り扱いは、真逆と表現しても差し支えないほどです。それは一言で言えば、インプット期とアウトプット期と言って差し支えないのですが、単純にそう言ってしまうとすこし物足りなく感じます。教育というのは、コドモたちを前に進めるために、下から引っ張るとことに似ています。彼らにはポテンシャルがあり、それは例えば坂の上にいるようなものだからです。最初に適切に引っ張ってあげれば、丸いものが坂道を転がり下りるように快く前に進んでいく。その最初の一引きが教育といわれるものだと考えています。スイスイと転がって前に進むコドモもいれば、途中で難儀する子もいるでしょう。それは本人の丸さが足りないのか、道がデコボコしているのか、はたまた引っ張る力が弱いのか、目に見えるセカイでない以上、それは個別によく観察して工夫して、なんとか進めるしかないのです。でも下り坂なのは確かですし、障害を取り去ることができれば、またコロコロと前に進んでいくことができるのだと信じたい。そう思います。

 でも下り坂はいつか終わりが来ます。最初に引っ張ってもらったエネルギーだけでは登れない上り坂が始まるのです。私はその下り坂のところをコドモ期、上り坂に差し掛かってからをオトナ期であると呼んでいるのです。下り坂から上り坂に変わる、それが大人と子供は裏返しという意味です。

 登ることを諦めて、下り坂をどんなに早いスピードで駆け抜けることができたかの思い出を胸に前に進むことやめてしまう、なんてこともあるかもしれません。下り坂で沢山の障害にぶつかった人の方が、自分の中にエンジンを作り出すことができ、上り坂でも順調に前に進めるかもしれません。スキー板でカニ歩きをするように、一歩一歩斜面を登っていくことを決めた人もいるかもしれません。

 老いと呼ばれるこの衰退の上り坂で1センチ、1ミリでも前に進んでいくのだという楽観的な意思が大人の力であると考えています。

どれだけ軽やかに前に進んで行っているか、それが大人の格好良さだと。

気づくと酒の話


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春は日本酒が美味しい。夏と秋と冬も美味しいが、春も美味しい。

日本酒は4合720mlで1,000円のものだ、と思っている。2,000円だからって2倍幸せにしてくれるわけでもない。でも2本あれば2倍幸せにしてくれる、必ず。お酒は高くなると作品になってきて、それも、とてもビューティフルな味がすることを知っている。神が細部に宿ってくる。凡人の凡飯に神さまはもったいない。

 

昨日は連休の谷間で、少し遅くまで仕事をして、職場最寄りの成城石井で八海山を買って帰った。これは贅沢な部類。

 

食べ物は奥さまが用意し、今や冷えたエビフライと、すき家で衝動買いした牛皿2倍盛り。人は、冷えた揚げ物を 蔑みがちですが日本酒を飲むにはちょうどよくて、からあげにビール!みたいな口を冷ます飲み方をしないのであればむしろ冷めたほうが良いくらい。油系の食べ物にもぶつからずさっぱりさせてくれる八海山が美味しかった。
食中酒は、あくまで食べ物がメインとすると個性がありすぎてもいけず、かといって特徴がないと覚えてもらえない難しさがある。その中で定番として古くから作られ、全国で廉価に売られているお酒というのは、ただもうリスペクト。
 
ロゴもイカス。
八海山 特別本醸造 瓶 720ml
 

お酒とトースト


ハンドルの根元をつかむと楽しい – webやぎの目

 

お酒を飲むと、子供に戻れる。素敵なファンタジー。好き。

 

でも、トーストに焦げ目があるように、どうしても苦み走る。

 

苦味走るスピードを超えて走れば、きっと時空を超えられる。

 

ああ、いい心持ちに酔った。深夜ザンギョーの夜

時間とテンポ

さとうもかから、時間とテンポについて考えてる。昔、ゾウの時間ネズミの時間って本があって、サイズが違えど心臓が15億回(ここの数字はすっかり忘れてて、検索したら書いてあった。ネット万歳)鼓動したとこあたりが寿命、なんてことが書いてあった。

人類の心拍が70だとすると、15億回は1,500,000,000回÷70回/分÷60分/時÷24時/日÷365日/年=40.76年。みたいな試算も書いてあったかな。幼心に、ニンゲンの自然な寿命は40年ちょっと、と刻まれたのを覚えてる。それが80年になるのが、ニンゲンの知恵というものか。

 

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)

 

 この本の主張の通り主観的な時間と、客観的な時間は違う。ネズミの1秒とゾウの1秒が違うように、私の1秒と他の誰かの1秒も違う長さ。私の1拍とさとうもかの1拍が違うように。

時間は伸びたり縮んだりする、そう感じるたびにこの小林秀雄「無常ということ」の一節を、なんとはなしに思い出してしまう。

「上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴(あめ)のように延びた時間という蒼(あお)ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想と思われる)から逃れる唯一ほんとうに有効なやり方のように思える。」

時間の流れ方は、人それぞれで、かつストップウォッチで測れる時間と私に流れる時間は違う。ストップウォッチやメトロノームで時間が測れるという考え自体も蒼ざめた思想に違いない。

唯一ほんとうに有効なやり方、少しだけ近づけたようにもおもう。過言。

テンポ・ルバート。さとうもか lukewarm

テンポ・ルバートtempo rubato)は、訳せば「盗まれた時間」という意味であり、本来的には音符音価の一部を奪い、他の音符に付与することを意味していた。したがって全体のテンポは変化しなかった。19世紀以降ではこの概念は退化して、柔軟にテンポを変えるという意味で用いられるようにもなった。

wikipedia テンポ・ルバート

テンポ・ルバート - Wikipedia

さとうもか、お前もか。ってダジャレを言われてそうな名前のさとうもか。オススメられて聞いてたらハマる。

世の中で売ってるPOPな音楽でこう、テンポが「ヨレる」のって珍しい気がするよ。ヨレると悪い印象だけど、リタルダントとかアッチェレランドっていうか(頑張って調べた)、冒頭申し上げたテンポ・ルバートっていうか。そういう、演出上のもの半分、巧まざるもの半分くらいに聞こえる。メトロノームとか、なんですか?みたいな。

複数人で合奏するときじゃあ、bpmをいくつで、みたいなところが必要なんだと思うのだけど、それって決めごととしては必要なのだろうけど、音楽としては不必要なのかも。

ジャズなんかだと、ライブ感でみんなでちょっとずつ早くなってもカッコいいみたいなことが許容されたりする(気がする)けど、まあそれとも違うわけで。

音が速く遅くなることで、一人の人間が存在していることがくっきりしてくる。主観的な時間が全面に出てくる。私の時計はこうやって進むの、あなたの時計はしらないわ?風の?

またその(客観的なものさしを横においたときの)ルーズさが、他の何かになぞらえられる演出も面白い。例えば1曲目はゼンマイの調子の悪いオルゴール、伸びたカセットテープとか、不安定なレコードとか。アナログテクノロジー世代に、心なしかのノスタルジーをもたらすの、作り物だとしてもね。

 

一人のアーティストの原点らしい素敵なアルバムだと思いました。これから、どんどん変わっていくのだろうし、このさきイン・テンポが気持ちいいときも来るのだろうな。不安定の安定が故に変わり続けることが勝手に楽しみ。聞き続けたいな。

 

ルークウォーム

ルークウォーム

 

 

くるうこと

朝もはよから陰謀論の辻説法をしているおじいさんが駅にいて、どうも私達は巨悪によっていいようにされちゃっているらしい。そんな気もする。ああいうアクティブなどうかした人というのを(ネットではなく)リアルで見るのは良いことだ。彼は言う、私のような本当のことを言う人間は、ややもするととっ捕まって病院に入れられてしまうのだと。そんな気もする。

大人になってくると、自分が見ている世界と他の人が見ている世界は全然違うことにだんだん気づく。あの人は映画マトリックスでいうところのモーフィアス。たとえ彼が正しいとしても、私はこの日常に戻る方のクスリを飲んでしまうだろう。

彼の言葉は、例えるなら私がどれだけ静止しているつもりでも、地球と一緒にものすごい速さでグルグル回っているのだ、という事実に似ている。たしかにそれも真実だけど、静止しているという主観的現実を生きるしかない。宇宙的視点、あるいは人間には持ちえない高次の視点から見れば正しい、というのがモーフィアスの言葉だ。

この電脳世界では、何かのきっかけで私たちはモーフィアスになってしまう。そうすると「現実」なんてブッ壊して構わない悪意に満ちた作り物だと「気付いて」しまう。陰謀は蔓延し「本当の世界」は侵される。その気付きは、ある種の副作用なのだ。

リアルで仕事を成し遂げた人がこの副作用で少しずつ脳の牢獄に閉じ込められていく、そういうことが有り得るのではないかと、ふと思う。ほら、どうかしたのかしらっておじさまおばさまが、たまにいらっしゃるでしょ?こちらの世界では。

脳の衰えより先に、身体的感覚器官が劣化することがその一因ではないかと疑ってる。重力を感じられなきゃ、静止しているという主観的現実の確からしさが弱まるのだ。

 

何を言っているか分からない。分からないなりに考えよう、そして体を動かそう。モーフィアスには、なれない。

また、明日にしよう。

 

マトリックス (字幕版)
 

 

 

BBA

インフルエンザがやってきた。1月息子がB、2月娘がB、3月奥さんがA。BBAコンボ。

家族、とりわけのインフルエンザというのは会社を休むには良い口実である。感染しないように気をつけてさえいれば、自分は無傷で数日家にいられる。そりゃメールや電話が皆無ではないけど。子どもたちに2回ずつ打たせたワクチン代は悲しいけど、してなきゃ高熱がもっと続いたはずだし、こんな過密な都市で生活するには接種証明が社会性の見せどころだし。

過疎地なら別にうつしたりうつされたりすることも少ないかも知らんけど、まあ仕方ないよね。大東京だからね。

奥さんは、子どもたちに2回インフル感染させるわけには行かないと天岩戸に引きこもりあそばされた。ドアには絶対入るなの貼り紙。その下に娘が書いた「ういるすがあるところ」の文字に笑ってしまう。かいじゅうたちのいるところ、みたいなひびき。

ようようみんな回復しました、なにより。看病をたくさんしたから、残りの家事は、明日にしよう。